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あの人に迫る 細谷亮太 聖路加国際病院副院長

(2010年1月29日) 【中日新聞】【夕刊】【その他】 この記事を印刷する

あの人に迫る 細谷亮太 聖路加国際病院副院長 小児がんの子と対等に話をする

 小児がんの専門医として四十年近く、病気の子どもたちと向き合ってきた聖路加国際病院(東京)副院長の細谷亮太さん(62)。つらい治療に立ち向かう子、治療のかいなく旅立った子、病気に打ち勝った子…。一人一人の命の輝きを見つめ続けてきたまなざしには、小さきものへの優しさがあふれている。(小林由比)

 小児がんの専門医になったのはなぜですか。

 僕は子どものころの記憶が鮮明であるようだし、その時の感情もよく覚えている。小児科を選んだのは、医学部を出た二十四歳の若造にとって、過ごした世代の人たちの方が理解可能と思ったから。聖路加に入院している子たちの三分の一が小児がんでした。出来上がったばかりの家庭で、一番弱い存在の子どもが病気になるというのは大変な状況だと思った。僕が寄り添って何とかしてあげたいと思う人たちが小児がんの患者さんだったのです。

 駆け出し時代は、小児がんは治らない病気でした。

 みんなが亡くなっていく中で、亡くなっていく子どもたちへの僕の共感は、全身全霊をこめた全力的な共感だった。

 先輩の先生からは「あんまり入れ込むとポキっと折れてしまうから、自分の生活は生活として分けて、プロフェッショナルとして仕事をした方がいい。お葬式なんかも行かない方がいいよ」と言われた。でも僕は燃え尽きてもかまわないと思った。そういう人の存在がないと、子どもたちがあんまりにもかわいそうだと思った。

 注射や処置も下手だったし、話だって下手くそで、駆け出しのころ受け持った子どもたちにはお気の毒なことをしたと今も思います。でも初めて見送った女の子のお母さんから三十年以上たって連絡をもらった時、その子は僕が病室に来るのを楽しみにしてたと聞き、心に刺さったトゲが取れた気がした。

 その子が亡くなった時、僕は覚えていないのだけど、「細谷先生はどうしたらいいか分からないような様子でずーっとそこに立ち尽くしていた。それが救いだった」とお母さんは話してくれました。

 今では親や祖父母の年代になってその人たちへの共感も持てるようになったけど、それとは別に、子どものことしか考えてくれていない人がいるというのは母親にとってよかったのかもしれないと思ったりした。

 三十歳を前に治療法を学びにアメリカへ。子どもに病名を告げて治療するきっかけにもなりました。

 アメリカでは子どもたちにも病気や治療のことをきちんと話していた。最初は違和感があった。でも、恩師は「細谷の宿題は子どもたちに病気の話をすることだ」と。帰国してお父さんお母さんにその重要性を話したり、子どもをケアするチームを整えたりして準備して、初めて子どもに話したのは帰国して六年がたってから。ちゃんと分かってくれました。

 日本では子どもの治療を行う時、子どもの意見を聞くことがないがしろにされがちです。でも一人の人間として対等に子どもたちと話をすることは重要です。治療に向かう力にもなる。今では小学校に入るくらいの子には自分の置かれている状況についての話をしています。

 今では七〜八割が治るようになりましたが助からない子もいます。生や死について、どういう話をするのですか。

 治らなくなった子どもたちが「自分は死ぬのか」って聞いてくる場面はやっぱりある。「人間はみんな死ぬし、でも今すぐ死ぬっていうわけじゃない。ひょっとしたら先生だって今日帰る途中に自動車事故で死ぬかもしれない。生きてるってことはそういうことなんだ」みたいなことをちっちゃい子にも話をしてあげないといけない。「細谷先生が先に死んだら自分の治療をする人がいなくなる」とか子どもは言ったりするんだけれど。

 ぼくは死んだら終わりだと思っていない。誰かがその人のことを覚えててくれて、そうやって人の営みは続いてきた。だから子どもたちにもそんなふうに話をします。助からない子どもたちをケアする医者や看護師は、自分なりの死生観みたいなものを持っていないといけないと思う。

 周りは悲しみをどう受け止めていくのでしょう。 

 子どもたちが残していくメッセージがものすごく重要だと思う。そういうメッセージによって、親や周りの人たちは生きていくわけですよね。

 治りにくい白血病で最近亡くなった「ちいちゃん」っていう女の子のお母さんから昨日手紙をもらいました。小学校二年生だった。ご両親は傷あとを残さずに治してあげたいと思って、割と軽い治療を選んだ。でも、再発をしてしまって結局、お父さんから骨髄移植をすることになった。

 入院のために両親と病院へ来る途中、お母さんが「ごめんね、最初からちゃんとやればこんなふうにならなかったのにね」と言うと、その子は「お母さんとお父さんが悪いんじゃなくて病気が悪い」って言ったって。

 お母さんはその子のことを僕が書いたのをたまたま読んで「うれしい」とお礼の気持ちを書いていました。このお母さんも、一時はもう死のうかっていうくらい落ち込んだけれど、人間って落ち込んだから終わりではなく、例えば僕がその子の思い出を書いたのを「うれしい」と思うような揺り戻しがある。

 涙を流したりもう辞めようかって思ったりすることがあることこそが、仕事を続けていくための重要な心の動きだと最近思うようになった。草花が風に揺れることで水を吸い上げるみたいに、喜んだり、悲しんだり、激しく心を動かされながら生きていくことがとても大事なんだと。

 病名を告知された子どもたちがまだ少なかった十年以上前から患者のためのキャンプを続けています。

 キャンプを記録し続け「風のかたち」という映画もできました。子どもたちが育っていく過程の中で、病名を告知されていることがネガティブには作用していない。「人のために役に立つ仕事をしたい」とか「(病気をしたのが他の家族でなく)自分でよかった」って言ったりするような子どもがいるということを映画は伝えてくれました。

 僕が仕事をしてきた四十年近くの間に小児がんは八割方治るようになってきたし、治そうとする若い後輩たちもたくさん育っている。天寿を全うできないようなほかの難病の人たちも含め、治らない人全体に大局的な手助けをすることが、そろそろ自分の仕事になってきているのかなと思っています。

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 ほそや・りょうた 1948(昭和23)年山形県生まれ。72年東北大医学部卒業後、聖路加国際病院小児科勤務。78年から米テキサス大M・D・アンダーソン病院がん研究所に勤務。80年聖路加病院に復職。現在は副院長・小児総合医療センター長。

 小児がん専門医として病気を告知された子どもたちとのキャンプにも取り組む。北海道滝川市で開園準備が進む「そらぷちキッズキャンプ」の財団法人代表理事も務める。

 毎週日曜には祖父が開業した山形の実家の診療所での診療を続ける。喨々(りょうりょう)の号で俳人でもある。著書に「小児病棟の四季」「生きるために、一句」など。

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インタビューを終えて

 俳人でもある細谷さんは、子どもたちとの日々を詠んでいる。「死にし患者の髪洗ひをり冬銀河」。小さかったわが子との入浴中、病理解剖の後に体をきれいにしてあげた子どもを思い涙が止まらなくなったという。「芭蕉もしょっちゅう泣いている」と言い、もののあわれの感覚を大切にする俳句の魅力も語ってくれた。

 取材中、ちいちゃんの話をしていて思わず涙ぐんだ細谷さんと、一緒に泣いた。「泣けなくなったら医者を辞める」と言う細谷さん。年を重ねても、慣れることなく柔らかな心を持ち続け、素直に涙を流す生き方は、本当にすてきだった。

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