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<浜通りの片隅に>東日本大震災6年(2) 帰郷

(2017年3月9日) 【中日新聞】【朝刊】【その他】 この記事を印刷する

移転重ねた障害者施設

 昼下がり、日当たりのいいフロアで、40人の入所者が思い思いにくつろいでいた。30歳から72歳。てんかんの持病で転倒の恐れがあるため頭部保護帽をかぶっている人、車いすの人もいる。

 昨年5月、福島県広野町の丘陵地に移転オープンした社会福祉法人友愛会の知的障害者施設・光洋愛成園。同法人は震災前、福島第一原発から15キロの同県富岡町内で同園など入所・通所の10施設を運営していた。しかし、震災や原発事故で施設はいずれも居住制限区域に。移転オープンは、5年にわたる避難生活を経てのこと。施設長の寺島利文さん(63)は「長い旅でした」と振り返った。

 震災の翌朝、利用者66人、職員15人がマイクロバス2台とワゴン車5台に分乗した。最初の避難先は、同県郡山市近郊の三春町の野外活動施設。研修室の床に毛布を敷き、雑魚寝の生活が1カ月続いた。食べ物や医薬品は、同町の協力で確保でき、富岡町の自宅を片付けた職員たちも駆けつけた。だが、生活環境が一変し、睡眠のリズムを崩したり、不安定になったりする利用者も続出した。

画像再建された施設で、入所者となごやかに交流する寺島利文さん(右)=福島県広野町で

 別の移転先を探したが、大人数のため難航。ようやく見つかったのが、群馬県高崎市にある重度知的障害者総合施設・国立のぞみの園だった。1970年代にできた大規模施設で、スペースに余裕があった。

 個々の生活空間も確保できた。グループでバスに乗って市内を散策したり、震災前にやっていた加工みそ造りや、スカーフなど布製品の桜染め作業も再開するなど、元の生活に近い日常が戻ってきた。同法人理事長の林久美子さんは「診療所をはじめ、いろんな設備が整っていて理想的な避難先でした。でも、永遠にいられる場所じゃない。1年が過ぎたころから、帰還のロードマップづくりを始めました」と振り返る。

光洋愛生園

 津波の心配がなく放射線量も低い場所を探し、広野町を候補地に定めた。国や県とも交渉を重ねた末、全員個室の光洋愛成園やワークセンターなどの新施設が完成。3度目の引っ越しが、浜通りへの帰郷となった。

 白を基調にした施設内を歩くと、入所者たちが次々に寺島さんに話し掛ける。ソファでリラックスしていたのは、福島県相馬市で放課後支援事業所「ゆうゆうクラブ」を運営する菅野友美子さん(56)の長男で入所する耕史さん(33)。障害児家庭を力づける菅野さんの活動も、わが子を任せられる施設があったから可能になった。

 しかし、震災前にいた54人の職員のうち、現在もいるのは18人。新規募集を続け、何とか必要な人手は確保しているが、若い人が戻ってこない地域での求人は難しい。医療サービスも手薄だ。施設の近くにある精神科主体の高野病院に投薬などの協力をしてもらっているが、昨年末に起きた火災で老院長が亡くなり、一時は病院の存続が危ぶまれた。

 「大変なことは多いけど、利用者さんたちの人生を豊かにするために、前を向いていきたい。あの大震災を乗り越えてきたんだから」と、寺島さんは力を込めた。

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