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<浜通りの片隅に>東日本大震災6年(3) 心の壁

(2017年3月10日) 【中日新聞】【朝刊】【その他】 この記事を印刷する

除染の合間交流 雪解け

 広大な駐車場を囲んで2階建てのプレハブが並ぶ。福島県南相馬市の丘陵地にあるゼネコンの除染作業員の合同宿舎。ピーク時は12棟があり、下請け会社の約1600人が暮らしていた。名古屋市北区の介護職員、三谷洋一さん(54)もその一人。2015年12月から今年1月末までの14カ月を、ここで過ごした。

 4年前から愛知県内のボランティア仲間と仮設住宅の慰問などの被災地支援を続けてきた。そして「福島の復興のためには、人が敬遠することをやらなくては」と、勤めていた介護施設を辞め、ハローワークで除染の仕事を見つけた。

 除染作業は森林、道路など班分けされており、三谷さんは宅地班。5〜7人で表面の土を剝ぎ取って袋に詰め、代わりの土を入れる。線量計を胸ポケットに差して毎日の被ばく量を積算していくが、問題にはならない量で防護服もなかった。もっと危険な作業もいとわないつもりだった三谷さんは、少し拍子抜けしたという。宿舎は折り畳みベッドがあるだけの3畳間で自炊禁止。シャワーを浴びて洗濯をして、スーパーで買った総菜などで夕食を済ませて寝るだけ。日給は、危険手当を含め1万1千円。

画像除染作業の休憩中に近所の住民をマッサージして交流する三谷洋一さん(三谷さん提供)

 現地入りした初日のこと。地元の知り合いに、居酒屋で歓迎された。店内はすいているのに、周りのテーブルには「予約席」の札。除染作業員らしき客が入ってくると、おかみさんが「ごめんなさい。予約でいっぱいなの」と断る。除染作業員は“えたいの知れないよそ者”という地元の強烈な警戒感の表れだった。「地域のための仕事なのに」。ショックを受けた。

 そんな日々の中で、三谷さんは地域の人との交流を目標にした。作業の休み時間に、地元の農家の人たちと雑談し、マッサージもした。休日には地域の活動にも参加した。住民と親しくなると「県外に出かけた時、『福島ナンバーだ』と指をさされ、帰れと言われた」といった話を打ち明けてくれるようになった。

 作業員が地域から排除されている一方、住民たちも「差別された体験」に傷ついていた。補償金をめぐる親族間のトラブルもたくさん聞いた。子育て世代が戻ってこず、高齢化が一気に進んだ地域の中に、さまざまな分断があった。

 そんな地域を元気づけようと、病院の医師、学習塾の経営者らいろんな人たちが町おこしに頑張っていた。次第に親しくなると「作業員の方たちともっと交流したい」と言ってくれて、涙が出た。名古屋へ戻るときには送別会を開いてくれた。

除染作業宿舎

 今は、名古屋市内で知り合いの介護事業所の立ち上げを手伝う三谷さん。南相馬で接した他の除染作業員たちについて「保険証も持っていない人もいたけれど、出稼ぎの農家の人や地元の人も多かった。仕事を熱く語る雰囲気もありました」と語る。

 福島での14カ月で実感したのは、偏見を排してつながっていくことの大切さだ。これからの支援活動に生かそうと思っている。

 11日は、福島県いわき市から愛知県小牧市に移住した吉田拓也さん(47)らが同市の小牧山で開く「アースデイいわきin小牧山」のイベントに参加し、除染の体験を語る。

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