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〈生活部記者の両親ダブル介護〉(14) 母たちの戦争体験

(2017年4月12日) 【中日新聞】【朝刊】【その他】 この記事を印刷する

疎開先から見た空襲

画像母の瞳。72年前、ここには燃える鹿児島市の炎が映っていました

 年寄りの話は聞くものだ。その記憶が断片になってしまったとしても、いろいろ突き合わせれば、何かが見えてくる。

 母(81)が自分の手で食べられるようになった報告がてら、鹿児島市に住む母の姉、つまり私の伯母に電話する。母に戦争の話を聞いたこと、認知症で断片的な話しか聞けなかったことも伝える。母より2つ年上の伯母に問う。「母が食べていたという『くちゃくちゃしたもの』って何ですか?」「くちゃくちゃ? ああ、それは茎よ。サツマイモの茎」

 サツマイモはその名の通り鹿児島が大産地のはず。なのに、鹿児島の子がイモも食べられず、茎を食べていたとは。重ねて問う。「疎開はしたんですか」「したよ。お父さんの同僚のつてで『吉野』という所に家を借りて」。グーグルマップで鹿児島市街の北東15キロ辺りの郊外にその地名を発見する。「空襲がひどくなって、終戦までの2カ月くらいいたんだよ」

 戦史を開く。本土南端の鹿児島には、本土上陸作戦に向け、米軍は特に念入りに空襲を繰り返したとある。最初は基地に。続いて市街へ。1945年4月21日の空襲で米軍は約200発の爆弾を投下。不発弾が多いなと油断していると、時間を置いて次々爆発した。アニメ映画「この世界の片隅に」にも出てくる時限爆弾だ。「いつ爆発するか分からず、神経的に相当の打撃だった」と戦史はつづる。

 そして同年6月17日の大空襲。「疎開先からも空が真っ赤になってるのを見たんだよ。あんたのお母さんも一緒に見たんだよ」と伯母。そうか。そんな中を生き抜いてくれたのか。母は。(三浦耕喜)

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