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〈生きる支える 心あわせて〉 脊髄小脳変性症と歩む(上)

(2017年6月28日) 【中日新聞】【朝刊】【その他】 この記事を印刷する

ぎりぎりまで自力で

画像買い物に行くため、自宅前の道に出て談笑する荒井欣也さん(右)と母めぐみさん(左)、姉柴田清子さん=愛知県一宮市で

 愛知県一宮市の自宅で、荒井欣也さん(49)が自室がある2階に上がるため、階段に取り付けたいす型のリフトに座ろうと試みる。しかし、うまくいかない。「おかしいなあ。腰のところを持って」。何度も尻もちをついた末、同居の母めぐみさん(83)に手伝いを頼んだ。手すりをつかむ荒井さんの腰をめぐみさんが支え「イチ、ニ、サン」。ようやく座れた。

 荒井さんは、運動機能をつかさどる小脳の神経細胞が壊れ、体がうまく動かせなくなる脊髄小脳変性症を患う。外では車いすを使うが、段差が多い自宅では両手両足を床について移動する。

 体が不自由になったのは、高校卒業直前に起こしたバイク事故がきっかけだ。後頭部を強く打ち、1カ月間入院した。そのころから体の動きが悪くなり、歩きにくくなった。身体障害者の認定は受けたが、原因は不明のまま。

 ようやく診断がついたのは事故から5年後。体の動かしづらさが少しずつ増す中、飛行機部品の製造会社でプログラミングの仕事をしていた23歳の時だった。主治医は両親に「寿命は長くない。すぐに寝たきりになる」と告げた。

 この宣告が、荒井さんにはかえってばねになった。「自分で運動しよう。筋力があれば、病が進行してもごまかせるかも」。今も毎朝毎晩、自宅で自転車型のトレーニング器具によじ登りこいでいる。

 それでも自力で歩けなくなり、20代後半には車いすが必要になった。「友達にこんな姿を見せたくない」と自宅に引きこもった。自分の体に「何で簡単なこともできんのや」と毎日かんしゃくを起こし、物を投げた。存命だった父と取っ組み合いもした。その生活は10年続いた。

 それが変わったのは、当時、デイサービス施設で働いていた姉の柴田清子さん(53)=名古屋市名東区=の行動があったから。「過去には戻れないし、外に出て、やれることをやるしかない。介護する母の負担も軽くしないと」。柴田さんは、一宮市内に荒井さんが好きなパソコンを学べる障害者施設を見つけ、「自分をさらけ出したくない」と嫌がる弟を横目に手続きをした。以来11年、荒井さんはこの施設に通っている。

 荒井さんにとって柴田さんは、家の外に連れ出してくれた恩人。一方、現在はケアマネジャーとして多くの人の介護計画を立てる姉からすれば、弟は“先生”でもある。何度リフトから落ちても、荒井さんが2階の自室で過ごすのは、今までの生活を変えたくないから。バリアフリーとは無縁な深い浴槽にも、手すりを握って湯船に足をかけて、滑るように入る。荒井さんは「医師には『2階に上がるのはやめろ』と言われる。風呂で転んで肋骨(ろっこつ)を折ったこともある。でも、自分でするのがいい。一度できないと思ってしまうと、どんどんできなくなる」と話す。

 そんな荒井さんにひやひやしながらも、柴田さんはぎりぎりまで手は出さない。「あきらめて手を貸せば楽だが、体の機能は低下する。介護はできることを続けてやってもらうために援助すること。弟がそう教えてくれた」(出口有紀)

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