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自分らしく 「AJU」の仲間たち (番外) 顧問・山田昭義さんに聞く

(2017年9月4日) 【中日新聞】【朝刊】【愛知】 この記事を印刷する

残る差別 声 あげ続ける

画像障害者の現状を語る山田昭義さん=名古屋市昭和区で

 名古屋市昭和区の社会福祉法人AJU自立の家の創設者の一人は、顧問の山田昭義さん(75)。自身も車いす利用者で長く、障害者の自立や社会進出を目指す活動に取り組んできた。障害のある人たちと、それを取り巻く日本社会の現状をどうみているのか聞いた。(聞き手・中山梓)

 −山田さんは15歳のときに事故に遭ったそうですね。

 海に飛び込んで首の骨を折り、四肢まひに。10年間、病院で寝たきり生活をして、その後、障害者施設で3年間、暮らしました。車いす生活になり、「こんちくしょう」と思うことばかりでした。

 駅にはエレベーターがなく、タクシーは自分が手を上げていても止まってくれない。ある飲食店では「あんたはもう来なくていいから」と言われました。入所した施設では職員が「税金で養ってもらっているんだから、文句言うな」と。施設を出て、31歳のとき、仲間と「県重度障害者の生活をよくする会」をつくりました。

 −周囲の反応はどうでしたか。

 募金活動中、街を歩く母親が子どもに向かって「あんたも悪いことをすると、ああいうふうになるんだからね」と言うのを見た仲間がいます。当時は「障害者はだめな人間だから、外に出すな」という考えが根強かった。障害者も人目に付くのを避け、周りも外へ出さなかった。

 私たちは、バリアー(障壁)だらけのこの社会に、自分たちも遊びに行ける場所をつくりたいと運動を始めました。街に段差があり、手すりがないのも、障害者の存在が知られていないから。みんなで積極的に街へ出ようじゃないかと。

 −山田さんは47歳のとき、仲間とともにAJU自立の家を設立しました。中核施設は、障害者が期限付きで個室生活を送る「サマリアハウス」。入所施設に頼らないで地域で暮らすために経験を積む場所で、これまで約120人が巣立ったと聞きます。

 三笠宮家の長男で、「ひげの殿下」と親しまれた故・寛仁親王と親しくさせてもらっていて、「障害者の下宿屋をつくれ」と言われました。仙台の先行施設のことをよくご存じでした。「強い障害者を育てる場にするんだ」ともおっしゃった。

 私たちは障害者が地域で暮らせるよう、障害者トイレの設置や段差解消などを行政に訴え続けました。自分たちが声を出すことで、次第に街は変わってきた。以前は車いすが珍しく、ジロジロ見られていたけれど、今は違う。普通に電車やバスも乗れるようになった。

 −昨年、相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で19人が殺害される事件が発生しました。

 亡くなった人が、「遺族の意向」として匿名にされた。もしも犠牲者が健常者だったら、社会もマスコミも「匿名はおかしい」と、もっと声をあげていたのではないか。「障害者は隠すべきもの」という考えが残っていて、それが匿名報道という形になった気がします。障害者差別解消法が施行されるなど制度は整ってきたが、潜在的には差別が残っているのだと思う。

 AJU自立の家は「どんなに障害が重くても、生まれてきてよかったと思える社会」を目指しています。社会を変えるには、声をあげ続けるしかない。弱い者の側に立って、障害のある人もない人も一緒に生活できることが理想。障害が重くても、人としての権利や尊厳が守られる社会であってほしい。

 やまだ・あきよし 1942(昭和17)年8月、新川町(現・清須市)に生まれる。「県重度障害者の生活をよくする会」で一緒に活動していた故・中村力さんらとともに90年、社会福祉法人「AJU自立の家」を設立した。設立時から今年3月末まで常務理事や専務理事を務めた。現在は顧問。国内の障害者運動のリーダーの一人としても知られる。障害があっても暮らしやすい社会の実現のため、行政などにも積極的に意見を述べてきた。

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