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第220回

青木さんの終末期

2017年2月22日

 21日の夕刊社会面で、名古屋市の弁護士・青木仁子さん(77)の終末期を紹介しました。
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 白血球を作れなくなる「骨髄異形成症候群」により昨年2月に「平均余命3ヵ月」と告知された青木さん。管弦楽の練習などに使っていた自宅内のホールを「死後30年、地域の公共財として活用してほしい」という遺言状を作成。私財を寄付してホールを運営する財団法人を立ち上げました。そして、ホールの活性化のために、老人会の会合、料理の研究会、緩和ケアの勉強会などを企画して、自ら参加する中で、1年後の今も命を保ち続けている、という内容です。
 「自宅内のホール」って、めったにない代物で、読者に伝わりにくいかと危惧していましたが、「感銘を受けた」と多くの感想をいただきました。ホッとしています。


青木仁子さんの自宅内にある青木記念ホール。講演会、料理教室などにも使える

貧困を乗り越え、弁護士に

 私は、今年から日本尊厳死協会東海支部の理事になり、その会合で「青木記念ホール」に初めてうかがいました。以前から青木さんとは面識があったのですが、ご病気のこともホールを残す取り組みも知らなかったので、本当に驚きました。
 手がしびれ、携帯電話もお箸も持てない。歩けるのも数十歩程度。そんな状態なのに、会合で意見を述べる青木さんは本当にエネルギッシュで、圧倒されました。

 ホールのことを新聞で書かせていただくにあたり、これまでの人生をうかがいました。
 少女時代、お父さんが病気になり、食べ物にも事欠くような貧困に見舞われたけれど、周りから生活保護の利用を勧められても、お父さんと青木さんが強く反対したそうです。当時の制度では、生活保護受給世帯の子女に大学進学の道が開かれていなかった。いくら貧しくても、勉強をする道は閉ざしたくないと父子の思いが一致したわけです。
 奨学金で高校時代を送り、名古屋大学法学部に進んだ後、青木さんが始めたのが「青木塾」という学習塾。一つ下の妹・好子さんにも手伝ってもらい、夕方から夜まで近所の子どもたちを教えました。それが大繁盛し、学費も一家の生計も支えられるようになり、青木さんが29歳で司法試験に合格するまで、姉妹でこの塾を続けたそうです。
 弁護士になり、自宅近くに法律事務所を開いてからは、当時の教え子など知り合いからの相談がひっきりなし。「下町の弁護士さん」として、庶民の悩みごとの解決に尽力する一方、男女共同参画、人権擁護,尊厳死などさまざまな活動にかかわってきました。

学ぶこと、人のために何かをすること

 旅行とか、グルメとか、車とかには興味がなく、勉強すること、人のために何かをすることが好きな性分。「青木記念ホール」と名付けられた立派なホールも、もともとは法曹関係者でつくるオーケストラの練習場所に提供することを目的に造りました。
 そんな青木さんだからこそ、たくさんの人が自宅を訪れ活動し、交流する希有の終末期が実現したのだと分かりました。

 記事は、1月下旬に書き上げたのですが、折からのトランプ騒動で紙面の空きがなく、掲載は大幅に遅れました。その間に青木さんが体調を崩して入院され、とても心配しました、ようやく夕刊に載った日が退院日でした。さっそく届けました。
 まだ起き上がるのが大変なようで、ベッドに寝たままでしたが、青木さんはとても喜んでくれて、3月にホールで予定している「日本近代史勉強会」のこと生き生きと話し始めました。
 「戦前の日本が自らの意志で戦争へ突き進んでいったのはなぜなのか、どんな空気があったのか。それを今、私たちが学ぶことが大事だと思うんです」。
 探していた講師の先生が見つかり、入院中も関係する本を読んでいたそうで「何だかウキウキしてきて、早く退院しなきゃと思って、病院の廊下で歩く練習をしていました」。

 見習うべきことがたくさんあります。これからも、時間を見つけて、ホールを訪ねようと思います。


ホールでヨガの仲間たちと談笑する青木さん(中央)。寝室のベッドからは十数歩の距離だ

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執筆

安藤 明夫

編集委員

生きがい、生活習慣病予防、心の健康・・・医療記者としての取材体験を自分自身の「これから」に重ねて、つづっていきます。