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第223回

尊厳ある生の先に

2017年4月28日

 弁護士の青木仁子さんが26日夕、名古屋市内の病院で亡くなられました。享年78歳。2ヵ月前の同欄「青木さんの終末期」でも紹介しましたが、「通常なら三ヵ月」と余命告知を受けてから1年2ヵ月。自宅内にある多目的ホール「青木記念ホール」を公共財として市民に無料開放することを遺言し、さまざまな企画を提案し、大勢の来訪者と接しながら過ごした終末期でした。

酸素吸入も点滴も「結構です」

 亡くなられる直前、同ホールで、私が理事を務めている日本尊厳死協会東海支部のイベントがあり、それを終えて、理事仲間と一緒に病院へお見舞いに行きました。
 青木さんは、すでに意識がなく、荒い息でした。付き添いの方によれば、主治医が「酸素ボンベを使いましょうか」「点滴をしますか」と提案しても「結構です」と拒否していたそうです。本人の希望通り、心電図などのモニターも付いていません。
 声をかけたり、手をさすったりして、見守っていると、やがて荒い息がふっと止まりました。理事仲間が「青木先生!」と呼びかけると、再びあえぐような呼吸が戻りましたが、すぐに止まり、それっきりでした。 
 やがて駆けつけた主治医は「さすがです。あっぱれですねー」と声をうるませていました。
 今月になって、高熱が続いたり、口内炎に苦しんだりするようになってからも、青木さんは何度か自己判断で退院し、青木ホールでのイベントに参加して、私たちに今後の希望を伝えたりしていました。椅子に座ることも大変で、すぐに病院にUターンというパターンが繰り返されました。
 お一人暮らしで24時間の付き合い体制が整わず、在宅死の希望は果たせなかったけれど、延命治療につながることはすべて拒否する姿勢を最期まで貫きました。
 まさに、尊厳ある生の先に、尊厳死があることを体現された気がします。

今日の葬儀には、約200人の方たちが参列しました。喪主を務めた妹さんは「姉は亡くなる前日、うわごとのようなことをたくさん話していました。その中で、はっきりと聞こえた言葉は『ありがとうございました』でした」と話しておられました。
苦学し、妹さんとともに学習塾を営んで、学費や生活費を捻出し、弁護士になった青木さん。弱い立場の人を支える情熱は終生変わりませんでした。やり残したことはない、という思いが「ありがとうございました」の言葉だったのでしょう。


青木さんの葬儀には約200人が参列し、別れを告げました

 そして、ちょうど出棺の時刻に、青木記念ホールでは「歌声喫茶」が始まりました。青木さんをしのんで「千の風になって」や「涙そうそう」などをみんなで歌いました。
 名古屋音楽療法研究所という団体の活動です。「私の葬儀などに関係なくホールの行事を優先するように」が青木さんの望みでした。 
ホールのイベントは、この1年で、すっかり充実しました。先の見えにくい時代の中で過去を振り返ってみようという「日本の近現代史を考える会」、料理や絵手紙の教室、地域の老人会・・・。そして、私がかかわっている「緩和ケア」の部門でも、毎月1回の連続講座を新たに始める予定です。青木さんが終末期のさまざまな痛み、苦しみを実感する中で、きめ細かな緩和ケアについて一般の人たちがもっと関心を持つべきだと思い、立ち上げた部門です。バトンを受け継いでいこうと思います。


葬儀の日に青木記念ホールで開かれた「歌声喫茶」

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執筆

安藤 明夫

編集委員

生きがい、生活習慣病予防、心の健康・・・医療記者としての取材体験を自分自身の「これから」に重ねて、つづっていきます。